文の墨跡

これまで、新聞や雑誌など掲載された文章や発言を拾い集め、書いた者の責任、主張したことへの検証をしていきます。

琉球沖縄を理解する必読の名著【人民の力】

2013.07.15

伊波敏男さん(信州沖縄塾塾長)の『島惑ひ』出版記念のつどい

ぶ器用に生きた伊波一族 惑いの島を浮き彫りに

6月23日、長野市で伊波敏男さんの『島惑ひ』の出版記念会のつどいが開催され、約80人が集まった。

今回出版された『島惑ひ』(人文書館)について、伊波さんは本の中で次のように語っている。「私がこの本を書き始めた動機は、戦争につながる新たな負担が、次からつぎへと故郷の沖縄に押し付けられている、現在の状況に疑問を抱いていることにある。沖縄の今日を理解するには、やはり歴史を遡らなければ、その実相を読み解けないと思い始めた。この本の背景は、琉球処分)(1879年)から今日現在までである。その時代背景の中で、ある一族がどのように生き、時代の流れに翻弄されてきたかを描くことで、あるいは現在の沖縄の姿が、浮き彫りになるのではないかと思い定めて描き始めた。史実を背景に、登場人物は私の先祖、伊波一族四代の物語である。登場する群像の一人ひとりは、歴史の成功者でもなくヒーローでもない。ある意味では勝ち組にはなれず、不器用に生きてきた一族の足跡である」と・・・。

伊波敏男さんは1943年沖縄県生まれの作家で、人権教育研究家であ。。ハンセン病回復でもあり、自らの半生の記「花に逢はん」などの著書がある。

そして、2004年より信州沖縄塾を主宰し塾長として今日まで活動している。信州沖縄塾の開塾にあたって「15万人世の命が失われた沖縄戦は時間稼ぎの消耗戦とも評されているが、これは本土決戦に備える松代大本営地下壕を完成させるまでに生み出された犠牲だった。その松代大本営がある長野から沖縄を考え、この国の未来を考えたいと思う」と、開塾の意義を語っている。その塾生や、伊波さんの人柄や思いに魅かれた多くの人たちが集まった。

伊波さんの暖かさと沖縄の憂いを共にする

「つどい」は、立食パーティーで、三部構成ですすめられた。事務局の竹内茂人さんの挨拶から始まった第一部は、八重山古典民謡保存会の杉浦剛さんの三線の演奏と唄で会場は一気に沖縄のムードに、そして呼びかけ人代表の盛岡正博さん(長野厚生蓮理事長)をはじめ呼びかけ人の皆さんから、伊波さんの出版への敬意と生き方への共感のお祝いの言葉がそれぞれ述べられた。

第二部は人形劇団がらくた座の木島知草さんによる「いきていりゃいいさむ」のギターと歌があり、会場も歌声につつまれた。そしてラジオのパーソナリティとしても活躍している広沢理枝子さんが盲導犬と共に舞台にあがり、伊波さんと『島惑ひ』の一部をファゴット演奏をバックに点字をなぞりながら朗読された。会場がシーンと静まり返った。

第三部は『島惑ひ』を読んでの感想を2名の方が述べた。一人は『差別とハンセン病ー「柊の垣根は今も」(平凡社新書)』の名著を世に出された地元品の毎日新聞社の幡谷史代さん、そしてもう一人は人民の力代表の常岡雅雄代表。二人とも本書によって「心を揺り動かされた思い」を伊波さんの苦難と闘志の人生への敬意をこめて語った。

畑谷さんは「なぜ沖縄は苦難の中にあるのかを真っ直ぐに見つめて、素手で生身で向き合って掴み取っていることに敬意を覚える。一すじの道が開くのではないか、その願いをもって書かれたと思う」と、その労に敬意を述べ「次回作があるはず、期待とています。」と結んだ。

常岡代表は「自分がこの名著を評してよいのだろうか」と前置きしながらも「事実を誠実に調べて書かれていて大変理性的な本であり、思考が大変深いことに感銘した。そして文章が美しく味わい深い。語彙が豊富な文章家であり、詩の心が流れており、伊波さんは詩人だなーとも思った。科学的な歴史家として生きる伊波さんの人生が結実しされている本であり、数少ない必読の本である。」と「人間」伊波さんの思いと共に『島惑ひ』を著わしていただいたことにむ御礼を述べた。

常岡代表は「沖縄はこのまま日本にとどまっていることに意味があるのかと問う声が大きくなるだろう」といつも語っているが、塾生である私も、あらためて沖縄を学び、日々の実践に生かしていきたいと思う会であった。

(信濃未来塾・町田光雄)

 

 

掲載元:雑誌

『島惑ひー琉球沖縄のこと』【月刊 榕樹】

2013.06.07

伊波敏男さんが自らのルーツ

をさかのぼる本を出版

作家でハンセン病回復者の伊波敏男さんが、自らのルーツをさかのぼり、琉球・沖縄の歴史をたどる『島惑ひ―琉球沖縄のこと』を出版しました。

伊波さんはこれまで自伝的な作品「花に逢はん」「夏椿、そして」で自らの苦難の半生を描いてきました。2001年11月25日には、沖縄県人会兵庫県本部婦人部の「第11回女性交流集会」でも講演。そのときの感動と衝撃は、私たちの記憶に深く刻まれています。

今回の作品は、「伊波一族むの不器用な生き方はどこから来ているのかむ。一族の歴史をまとめてみないか」という兄の勧めがきっかけ。泊士族だった曾祖父第14世伊波興來は、1879(明治12)ねんの琉球処分に直面。明治政府に最後まで抵抗し、今帰仁村仲宗根に屋取(士族が都落ちして農業を営む)してかせらも、その姿勢をかえませんでした。曾祖父の厳しい教育を受けた祖父興用(興來の次男)は、父の死後、あることがきっかけで酒浸りの生活を送るようになり、父興光は子どものときから苦労の連続。南大東島に渡って成功をおさめますが、沖縄戦でその財産もうしなうこと――

琉球処分から沖縄戦、そして現在まで、沖縄の歴史に一族の歴史を重ねた労作。現在、長野県上田市で「信州沖縄塾」を開く著者の生き方にも繋がっています。

掲載元:雑誌

真の悲しみを知る者は 他に喜びの種を与える【致知4月号】

2012.03.02

月刊『致知』4月号

順逆をこえる

インタビュー③

真の悲しみを知る者は

他に喜びの種を与える
作家・ハンセン病回復者

伊波敏男

ハンセン病に対する社会的理解が乏しかった昭和40年代、自ら回復者であることを明らかにし、一般社会で生きてきた伊波敏男さん。多くの差別や偏見の中で、「普通に生きたい」という思いを貫いてこられた。人生の山谷をいくつもこえる中で伊波さんが摑んだ人間の真実、人生の真理についてお話しいただいた。

いは・としお

昭和18年沖縄県生まれ。14歳からハンセン病療養所で生活を始め、沖縄、鹿児島、岡山の療養所での治療を経て全快。その後、東京の中央労働学院で学び、44年社会福祉法人東京コロニー入所。平成3年から3年間東京コロニーおよび社団法人ゼンコロ常務理事を務め、退所。執筆活動に入る。主な著書に『花に逢はん』(NHK出版)、『ゆうなの花の季と』(人文書館)、『ハンセン病を生きて』(岩波ジュニア新書)などがある。現在は長野県上田市在住。長野大学客員教授も務める。

一生涯、ここで

一人で生きていくのだ

――伊波さんは昭和40年代からハンセン病回復者であることを明らかにして生きてこられました。

伊波 僕はただ普通に生きたかった。病気が治っているのに隔離されて人生を送ることは異常なんだという思いがありましたからね。

――当時、他の回復者で同じようにカミングアウトされた人は?

伊波 いなかったですね。逆に「若いから世の中を知らないんだ」「無謀な挑戦だ」と、随分反対されました。

――お生まれは沖縄でしたね。

伊波 はい。当時の沖縄は戦争で大変な被害に遭い、その上、日本国から切り離されました。アメリカは自分たちの血で購った土地だという思いがあるから、インフラを整えたり島を復興するよりも軍事基地として要塞化することが最優先だったのでしょう。だから、その頃沖縄ではいろいろな病気が発生しているんです。特に15歳以下の子供のハンセン病が多発して、収容された愛楽園という療養所には五歳から15歳までの子供が56人もいました。

――発病を知ったのは、おいくつの時でしたか。

伊波 異変は前から感じていたのですが、検査を受け、はっきりと宣告されたのは14歳です。父と訪ねたゴザ市(現・沖縄市)の中央病院で、日本国から来ていた医師が「残念ですが、息子さんはハンセン病を発病しています」と。

その時ははっきりと実感が湧かなかったのですが、家に帰って家族に報告され、一晩中泣いている母の姿を見て、「僕には何か特別なことが始まるんだ」という予感はありました。

それが現実になったのは、翌日、愛楽園に収容されてからです。愛楽園は、沖縄本島の北にある屋我地島という小さな島にあります。入ってまず「あれ?」と思ったのは、私の名前が「関口進」と変えられたことです。その深い意味を理解するまでには時間がかかりましたが、「ああ、ここで一生涯、一人で生きていくのだ」という覚悟が少しずつできていきました。

――大きな環境の変化をご自身ですぐに受け止められましたか。

伊波 最初は私も驚きました。ご存じでしょうけれど、治療薬のなかった時のハンセン病は、顔や手足が変形し、大変醜い症状が残ります。

私が一番最初に出会った人もそうでした。口はゆがみ、捲れかかった口端には涎が光っていました。指のほとんどない手で、お腹が空いているだろうと、私にサーターアンダギーをくれたんです。でも、私は恐ろしくて食べられなかった。自分だって同じ病気なのに……。

私はそれをトイレに捨てたんです。自分への怒りと悲しさが突き上げてきて、泣きながらその人の下へ謝りに行きました。

その人は礼拝堂でお祈りをしていました。捨てたことを詫びると、「……いいんだよ、正直な子供だねぇ。一緒に祈りましょう。いま新しい友人となったあなたのためにお祈りをしていたところです」。

その人は青木恵哉伝導師といって、この愛楽園を設立した人でした。本土から伝導に来て、沖縄の病友たちが村から追われ洞窟に隠れ住んでいる姿を見て、安心して治療に専念できる土地が欲しいと奔走されました。地域住人から命を狙われるほど迫害を受けましたが、昭和13年に屋我地島に愛楽園を設立した、信念の人です。
作家となる原点の出会い

伊波 青木伝道師もそうですが、私の人生を振り返ると、人との出会いに恵まれたと思いますね。

出会いということでは、私が作家になった原点は川端康成さんとの邂逅だと思います。

――どのような出会いでしたか。

伊波 川端さんは『雪国』を発表した昭和十年頃、ハンセン病療養所に収容されていた一人の青年と出会うんです。

彼は自身の魂の葛藤を原稿にするのですが、世に発表していいレベルかわからない。それで売れっ子作家だった川端さんに原稿を送りつけるんです。それを読んだ川端さんは大変感動して、『文学界』に掲載するための仲介の労を取った。その作品が北条民雄の『いのちの初夜』といって、増刷に増刷を重ねる大ベストセラーとなった。

そういうつながりを持っていたことから、川端さんは昭和33年に沖縄に講演で招かれた時、沖縄のハンセン病の子供たちに会いたいとリクエストされたんです。小中学生合わせて五十六人の作文の中から私が選ばれ、お会いする機会を得ました。中学三年の時です。

――どんな印象でしたか。

伊波 驚きましたね。当時ハンセン病療養所に外来者が入るには、マスクをして消毒済みの長靴を履いて、と完全防備するのが普通でしたが、川端さんはワイシャツ一枚。

「関口君、作文を読みましたよ」と言って、僕の手を握ろうとしたから、慌てて手を後ろに引いたんです。そうしたら悲しそうな顔をしてね、今度はご自分の椅子を引き寄せ、私の両太ももをはさみ、唾がかかるほどの近さでお話しされました。

私は北条民雄の全集に掲載されていた川端さん宛ての手紙文を覚えていたんです。

「僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったのです。文学するよりも根本問題だったのです。生きる態度はその次からだったのです」

「人間が信じられるならば耐えていくことも出来ると思います。人間を信ずるか、信じないか」

諳んじていた北条の手紙の一部を口にすると、川端さんはふわーっとシャボン玉のような涙を浮かべ、「……君は分かっています、北条民雄の悲しみが分かっていますよ」と。そして、「いっぱい蓄えなさい。そしていっぱい書きなさい」と言われました。

随行の方々から時間だと促され、川端さんは部屋を出て行かれました。しかしもう一度戻ってこ来て、「関口君、欲しいものはありますか」と聞くんです。「本が欲しいです」と答えたら、一か月後、木箱でたくさんの本が送られてきました。本を読むことで療養所の外の世界を思い、夢をたくさん描くことができたと思っています。
人として

生きるための脱走

――本を読むことで隔離されていた園以外の世界へ思いを馳せるようになったのですね。

伊波 そういうことです。

それは私が置かれた状況も影響していたと思います。私は中学三年も半ばにくると、毎日夜が明けると不安で不安で……。なぜかと言うと、園内では義務教育しか用意されていません。中学を卒業したら、後は死ぬまでずっとこの園で過ごすだけ。僕はもっと勉強をしたかった。

そんな時、岡山の長島愛生園の中にハンセン病患者のための高校があることを知るんです。それからの関心事は、どうしたら高校に行けるかということでした。ただ、当時沖縄は日本ではないですから、そんな簡単な話ではない。

――それで、どうされたのですか。

伊波 園内のいろいろな大人たちに聞き回ったところ、自治会長さんからこう言われたんですね。

「法律は人間社会では守るためにつくられているが、人間が生きていくためには、時には破ることも致し方ない」

要するに、僕の願いを実現するにはらい予防法を破って脱走するしかないということです。

――脱走……。

伊波 沖縄を出るからにはパスポートが必要だということも教えてもらいました。面会に来た母を通じて、父に許しを請い、パスポートを取ってほしいと頼みました。しかし、待てど暮らせど返事が来ない。次第に卒業が近づき、僕も焦ってきました。

そんなある日、父から非常に短い手紙が届きました。そこには

「他言無用

1960年3月6日夜の7時半

我が身以外一切の荷物を持つな

懐中電灯三回連続点灯」

とだけ書かれ、余白に屋我地島の地図があって、ある地点に赤丸がついていた。そこに来い、という意味でした。

当日、指定された場所で待っていると、手紙にあったように懐中電灯がパパパっと点滅しました。するとすーっと船が近づいてきて、父と一緒に島を脱走したのです。

本島につくとタクシーが待っていました。夜遅くに家に着き、二年ぶりに家族に再会して、翌朝早くに那覇港へ向かいました。

――いよいよ日本国へ。

伊波 その前に出国のチェックを通過しなければなりません。当時の琉球政府は、特にハンセン病患者の出入国を厳しく取り締まっていました。僕は手に重い後遺症があったから、手を出したら分かってしまう。オーバーを縦に折り、その中に手を隠すように持って、父の背中にくっつくように検疫官の前を通過しました。

ああ、うまくいったと思って安堵したのもつかの間、パスポートチェックでアメリカの民政官に「Stop!」と言われました。そして彼は私のパスポートを指差して、「your
sign,please」と。

私も父も他のことで頭がいっぱいで、肝心のパスポートに自筆のサインを入れるのを忘れていた。

彼は万年筆を差し出し、サインを促します。予想外のことでこっちもパニックですから、これまでかくしていた手を思わず出してしまったんですね。彼はしっかりと私の手を見ていました。

「しまった!」と思いましたが、仕方がない。サインを書き、もうダメだと思いながら万年筆を返しました。すると彼は大きくウインクしながら、「Good Luck!」と。

そして、パスポートに大きな音を響かせポンとスタンプを押して僕に返してくれました。
人生の目標は

普通に生きること

伊波 鹿児島に到着すると、ハンセン病療養所に向かいました。そこには愛楽園の自治会長さんから連絡が入っていて、事情はご存じでした。しばらくそこで過ごした後、受験をして、岡山の邑久高等学校新良田教室に入学しました。

――念願の高校生活はいかがでしたか。

伊波 高校時代の思い出は、手術とリハビリですね。これは橋爪先生という若い医師との出会いがきっかけでした。

「あの先生はすぐに手術を勧めてくる」といわれていた通り、初めての定期健診の時から、「整形手術をすれば、手足の機能はかなり回復しますよ」と。

それから熱心な説得が始まりました。というのも、僕の手の後遺症は在校生の中でも最重度の機能障害があり、手術をして成功すれば、初めてのケースになる。毎晩のように部屋を訪れては医学講義です。

最初は上の空で聞いていましたが、ある時、先生がふと、「いずれハンセン病も普通の病気になります。社会復帰に備えて手足の機能をよくしておかないと……」といわれた。社会復帰? この僕が?

これまで高校に進学することだけを考えてきましたが、その先はずっと療養所で暮らすんだろうなと思っていました。

しかし、先生の言葉を聞いて、手術を決意するんです。それから在学中の5年間で12回もの手術を行いました。

――そんなに……。

伊波 橋爪先生は「伊波君は僕の改造人間だ」とおっしゃるけれど(笑)、確かにそのおかげでいまがあるんです。

一方で同じ頃、ハンセン病に関するいくつかの国際的な文献を目にします。昭和27年のWHOらい専門委員会では「特殊ならい法規は廃止されるべき」とあるし、31年のローマ会議では、ハンセン病は治る病気であるとして、社会復帰を促進するようにと。昭和27年といったら、僕が療養所に入る前のことですよ。
ああ、僕は特別な病気じゃなかったんだと。誰でも病気はする。治療して治ったら、誰も問題にしないのに、なぜ我われは隔離され問題にされるんだと、当然の疑問が湧いてきました。

そうして人生で目指すべきものができました。それは普通に生きたい、特別な場所で隔離されて生きたくはない、ということでした。

 

回復者として

生きる

――ハンセン病に関する真実を知ったことで回復者であることを隠さず生きる決心をされたのですね。

伊波 はい。高校卒業後は、伊波敏男として東京の中央労働学院(現・武蔵野外語専門学校)に進みました。通学のため多磨全生園という療養所に転園しましたが、その頃には「治療の必要はなし」とされ、薬の一つも飲んでいませんでした。

そこを出た後は、社会福祉法人の東京コロニーに就職しました。もともとは結核回復者が社会に受け入れられなかった時代につくられた施設でしたが、その頃には身障者も働いていました。そういう施設であっても、回復者の私を受け入れる、入れないで大変揉めたそうですが、最終的には経営者の判断で就職できたんです。

普通に暮らし、普通に働く。その延長線上にできた新たな夢は、好きな女性と結婚して、子供を持つことでした。

――らい予防法によって療養所内では子供をつくることは禁じられていましたからね。

伊波 実際、その夢は実現したんです。相手は全生園に勤務する看護師で、すべて理解した上での結婚でした。二人の子供にも恵まれましたが、やはりとても大きなチャレンジでしたね。

こんなことがありました。

全生園の職員を対象に柊荘というアパートがつくられた時、彼女の同僚がうちの家族を気遣って申し込んでくれたらしいんです。応募が殺到した中で、幸か不幸か我が家も当選した。そうしたら、ほかに当選した家族は全員辞退しました。繰り上げ当選になった人たちも入居せず、何か月も私たち家族だけしか入らず、結局は民間の不動産屋に管理されることになったんです。

また、職員の子供のための保育所がありました。職員以外でも近所の一般家庭の子供たちも入っていたのですが、うちの長男が生まれた時、代表者が頻繁にうちを訪れて、保育園には入れてくれるなと。うちの子が入ると入園希望者が減り、経営がなりたたなくなり困ると言うのです。

――いずれもハンセン病療養所の職員を対象としているのに?

伊波 「理性と感情は違う」と、はっきり言われましたよ。

一方、僕はマスコミにも存在を知られて、回復者の象徴のようになっていました。僕が外で発言すると、周囲の批判は全部妻のところに来るんです。最初は「お父さん、頑張って」と言っていたけれど、いつしか「もう発言しないでください」と変わっていきました。でも、私も若かったから、自分が闘ってこの間違った世の中を変えるんだ、と思っていた。

次第にその溝は埋められなくなって、最後には子供二人を連れて出て行ってしまいました。息子が8歳、娘は5歳でした。
約束の十年

伊波 それからしばらくは、家族がいない淋しさを忘れるように仕事をしましたね。事業も大きくなり、責任ある立場にもなりましたから、懸命に働くことで独りでいることの気を紛らせていたのかもしれません。

ところが、十年経ったある日、突然、元の妻から電話がきました。彼女は再婚して新しい家庭を築いていましたが、息子が僕に会いたいといっていると。ご主人も理解しているというから、十年ぶりに息子に会うことにしたんです。

平成2年の8月23日、彼は広島から一人で我が家にやってきました。家の中を一通り見渡して「僕らがいた頃のままですね」と言って、そして「お父さん、約束の十年が経ちました」と……。

――約束の十年とは?

伊波 別れる時、息子はお父さんと残りたいと言ったんです。だけど、男の子なんだから、お前はお母さんと妹を守るんだと言い聞かせた。「でも、ぼく、いつか自分のことができるようになって、お父さんのお手伝いできるようになったら、来てもいい?」「いいよ」「あと何年生になったらいい?」。

そう言って私の前に小さな両手を広げました。私はその小さな指を一本ずつ折って「一年、二年、三年……じゅーねん」と。「十年生? 十年生になったらいいの?」「いいよ」。

――その日のことを息子さんは忘れていなかったんですね。

伊波 「あ、こいつちゃんと覚えていたんだ」と思ってね……。

見れば、彼はボロボロになった『東京北多摩』の地図を持っていました。小学校四年生の時に買って以来、十年経ったら父親に会いに行くんだと思って、自分が住んでいた家を忘れないよういつも地図を見ていたらしい。

この息子との再会をきっかけにして娘とも会うようになり、いまはその後僕が再婚した妻も含めて、結構仲良くやっています。

ハンセン病とともにある

人生の中で見つけたもの

――平成の時代になって、伊波さんの人生同様、日本のハンセン病の歴史も大きく動きました。

伊波 平成13年の5月12日に熊本地方裁判所の違憲国家賠償判決が出て、当時の小泉首相が控訴を断念し、「国の誤りだった」と政府声明を出したわけです。

明治40年に「癩予防法ニ関スル件」ができましたが、昭和18年には特効薬のプロミンができ、諸外国は差別撤廃に動いてきたのに、日本は平成13年まで隔離政策が続けられた。この過ちが正式認められたのです。

しかし、僕はこの裁判の原告には加わりませんでした。なぜなら、私はその32年前にこの過ちを指摘して、隔離を拒否し、回復者だと明らかにして一般社会で生きることを選んだ。私自身はすでに判決を出していたわけです。いまさら司法の場で裁いてもらおうという場に加わったら、自分のこれまでの人生を自己否定することになってしまいます。

ただ、その時、私はこの問題に関して一生社会に問い続けるという決意を新たにしました。判決が下り、法律が変わっても、百年続いたハンセン病政策で形成された社会意識は、すぐには変わらない。泣いて苦しんだ者として、この偏見をなくす闘いに一生を懸けようと決めたんです。

いまはコロニーを退き、執筆と講演活動によって特に若い人たちにこの歴史の重みを伝えていこうと思っています。

一方で私がいま力を入れているのが、フィリピンへの「伊波基金」です。

――フィリピンとはどういうご縁なのですか。

伊波 違憲判決の翌年、バルア・スマナ博士というWHOの西アジア担当官が我が家を訪ねてきました。いろいろディスカッションした時、任地であるフィリピンの医療制度についてお聞きしたんですね。

フィリピン国立大学医学部レイテ分校では医療従事者を育てるのに学費は大学が、生活費は地域社会が負担することになっているんです。その代わり、卒業後は地域医療に従事するというシステムなのですが、なにぶん貧しい国だから地域が疲弊していると。

ちょうど前年の判決によって、私も賠償金をもらっていました。「じゃあ、この金を使いますか?」と言って、それを元手に設立したのが伊波基金です。

――ご自身の賠償金でフィリピンの支援を申し出られた。

伊波 私は貧しいよその国を助けているとは思っていないんです。

この話を聞いた時、私は十四歳のあの日のことが甦ってきました。

ハンセン病と宣告された後、日本国から招聘された医師は机をたたき、こう言いました。「この少年がこんなに病状が重くなるまで沖縄の医師は何をしていたんだ」。

この言葉がずっと心に残っていました。必要な時に病人の近くに医師がいてほしいというのは、私にとっては人事じゃない。よその国の人を救うための慈善活動ではなく、少年だった自分を取り戻しているんです。

また、賠償金ももともとは国民の税金です。だから創設した時から、フィリピンの方々には「このお金は日本国民からのプレゼントですよ」とメッセージを送っています。一時的に私が預かったものであって、フィリピンで病人の苦しみを救うために志ある人たちのために役立ててほしいという日本国民の気持ちなんだと。

――自身の苦境の人生へ償われたものを、さらに苦しんでいる人たちのために使われているのですね。

伊波 ハンセン病は私の人生にとって厄介な荷物だったし、簡単なものじゃなかった。だから闘わなければならない場面もたくさんありました。だけど、それに拘泥して自分の人生を左右されてはいけないと思ってきたし、自分が一番苦しいんだという不幸の競争はしたくないと思ってきました。

私は順逆の評価は簡単にできないと思っているんです。ある時は逆境だと思っても、時が経てばよかったと思うこともある。そのためすぐには順逆の答えは出せないけれど、仮にハンセン病が逆境だとするなら、私がその人生の中で見た確かなものは、人の優しさです。人間社会はそれほど見下げたものじゃないですね。

「人間が信じられるならば耐えていくことも出来ると思います。人間を信ずるか、信じないか」

この北条民雄の魂の問いに対し、僕は「人間は信じ合っていい」という答を出すことができた。それは、ハンセン病という人生を歩んだから手にすることができた、人生の真理だったと思います。

(致致出版社 2012  April  ④)

 

 

 

掲載元:雑誌

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