隣組の童声はなし暑気払ひ | かぎやで風・NPO法人クリオン虹の基金

遠い人にも身近な友にも[コラム]~~かぎやで風~~

石を踏んだ足の痛みではなく、踏まれた石の痛みに軸足を置きながら、その折々、考えたこと、言うべきことを記します。

隣組の童声はなし暑気払ひ【No.289】

2017.08.07

〈立秋〉2021/08.07
 7月4日、レイテ分校(RHS)での主な行事を無事過ごし、タクロバン空港6:40発PR2892便でマニラに向かう。マニラ国際空港にはバブさんの奥さんが出迎えてくれ、サンバリ財団理事長フイリップ・カマラさんからのお土産を手渡された。別行動でセブ島の調査に出かけていた山口カズコ様が合流する。残念ながら仕事の都合で弓場ご夫妻は、一足早く帰国の途についた。
 PR2033便14:40マニラ発でブスアンガ空港へ飛ぶ。空港から約Ⅰ時間車に揺られて港町コロン町のホテルで一泊。通訳同行の穴田久美子さんは、実に目配りが利き、酸味が強いフイリピン料理の味付けを苦手とする箸ののすすみ具合を目ざとくインプットし、次の料理からは、酸味を控えめに手配されていた。
 朝、コロンの桟橋から、約Ⅰ時間、竜骨つきの船で、七年ぶりのクリオン島に向かう。珍しく海はないでいて快適に波を切っていた。
 パラワン州クリオン(Culion)は、クリオン島を含む41の島からなる。クリオン島は、かつてはハンセン病患者の隔離の島であった。
 1906年5月、最初のハンセン病患者370名が送り込まれ、その年、その数は800人にのぼるが、過酷な環境の中で、その1/3が栄養失調等で生命を落としたと記録されている。
1934年の隔離患者数は6,500人を数え、世界最大の規模である。わが国の隔離政策推進者の光田健輔医師も、この地を見学し、後の岡山にある国立ハンセン病療養所のモデルにしたという。フイリピンは1952年に隔離政策を廃止し、1964年には外来治療を始める法令を制定する。日本では1996年まで隔離政策がつづいた。
 現在、同島には元ハンセン病患者や医療関係者の子孫たちと一般人が住み、ハンセン病への偏見や差別の痕跡は見かけられなかった。ハンセン病医療機関は総合病院に生まれ変わり、地域医療のセンターの役割を果たしている。その中心で活躍している医師が、アウトゥロ・クナナン博士(56)である。同島の人口は20,000人で、なんと、首長は日系三世仲地氏と聞かされた。知らされたことによると、仲地氏の祖父は、大戦前コロン島で漁師として活躍していたが、太平洋戦争時、ゲリラからの通報によって、日本国のスパイ容疑で、アメリカ軍によってクリオン島の山中で処刑されたという。仲地首長は自らのルーツ捜しを沖縄に依頼しているという。ここにも戦争の傷痕が出口を探していた。
 7月6日、クナナン博士のご配慮による交流夕食会が行われ、州の公衆衛生局員、ハンセン病回復者、20数名が一堂に会し、賑やかな交流会となった。6年前、ハンセン病回復者だけの夕食会には40名近い賑わいのパーティーだったが、私をダンスのパートナーとして無理矢理引っ張り出し、踊ってくれた彼女は、残念ながら天国に旅立っていた。時は急ぎ足である。
 7日、クリオン島の朝を満喫し、午前110:00に、クナナン博士の見送りを受け、島を離れた。島影を見つめながら、今回、訪問直前に体調を崩し、フイリピン行きを断念した妻も一緒に、フイリリピンへの旅が実現することを祈った。
 8日、JAL742便14:25マニラ発までの時間を利用し、太平洋戦争末期、旧市街インストラムロスで日米・ゲリラ間でマニラ市街戦が行われ、追い込まれた日本軍による残虐行為や戦闘によって、民間人100,000人、日本軍12,000人アメリカ軍人6,600人の命が失われた。せめてもの許しと鎮魂の思いをこめ、メモラーム1956祈念像に手を合わせ、花を手向けた。
短い時間をぬって、日刊まにら新聞の冨田すみれ子記者の取材を受け、そのインタビュー記事が、8月Ⅰ日の同紙に掲載されたことを報告します。
次回は8月23日処暑にお会いしましょう。

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